使わないものは持っていても意味がない?
私は持ち物が多い方だと思う。特に、自分でお金を稼いで物を買えるようになったら飛躍的に増えた。
一度一人暮らしをして実家に戻ったので、ほぼ毎日のように
「使わないものは持ってても意味ないやろ。使わないなら捨てなよ。」
と言われている。で、一人暮らしをしていた時に使っていたテレビや洗濯機を捨てようとして、
「それはまた使うやろ!」と全力で止められた。
私は使わないと分かっていたけれど買ったものも多い。使わないなら持っていても意味がない、とは思っていないからだ。
そこにそれがある、好きなときに眺められる、というだけで私にとっては充分に価値がある。
一方で、テレビはまたいつでも手に入る。しかも、また必要になったときは、今持っているテレビより性能の良いものが手に入るだろう。
別に今持っているテレビに不満はないし、また必要になることが分かっているので積極的に捨てるつもりはないけれど、収納スペースに問題があったり、収納できてもやいやい言ってくる家族がいると、捨てるものの優先順位に上がってくるのはテレビになる。
一方で、「欲しいけど、使わないかもしれないし…」と購入をやめると、後になりずっと後悔したことがあった。
2年前、百貨店の中で、ある店員さんが着ているワンピースが目に止まった。高額な商品が並ぶエリアだったので、その時はどのブランドのワンピースか確認せずに立ち去った。
しかし、とても心惹かれるワンピースだった。
結局忘れられず、数日経ってからネットで調べた。一着にそれだけをかけたことが無い金額だったので、迷いに迷った。もう一度、店舗に見に行ったりしたけれど、「着ていくところもないしな…」と思って買えずにいた。そうこうしているうちに、そのワンピースは売り切れた。
当時の私にとって、そのワンピースは高価だったけれど、そのワンピースにそれだけ払ったところで経済的には特に何も困らなかった。普段、あまり服飾にお金を掛けない私がかなりの期間迷うくらい欲しいと思ったのだから、よっぽどだった。それだけ欲しいと思っていたら、買うべきだった。
でも、私は買わなかった。
それから、私はどうしたか。
2年間、ワンピースを買わなかったことを後悔し続けた。そして、そのワンピースがどこかに売っていないか、買ったけど着なくなった人がオークションに出品したりはしないかと探し続けた。
自分の気持ちに蓋をして、お金を払うことを渋った結果である。でも今となっては、その後悔した時間や、ネットや古着屋で探し続けた手間の方がよっぽどそのお金よりも高価だったと思っている。
もし買っていたら、後悔したり探したりするのに費やした時間、ワンピースをうっとりと眺めて幸せな気持ちでいることもできたのだ。でも、当時の私はそれを私のために選ぶことができなかった。それを買うことで得られるものは、ワンピースだけではないということが分からなかったからだった。
今は、意識して「使う・使わない」ではなく、「私にとってそれにどんな価値があるか」で選ぶようにしている。毎日眺めて楽しめたり、幸せな気分になったりできるなら、それはたとえ使わなくても私にとっては充分に価値のあるものだ。
そうしていたら、あのワンピースも私のところへ来ることになった。当時は「着ていくところもない」と思っていたけれど、今は「あれを着てどこへ行こうかな」と楽しみにしている。私がそう思えるまで、あのワンピースは待っていたのかもしれない。
わたしたちポケモン世代です
22日、私は翌日彼氏の両親に会うために、夜勤明けで関西から神奈川県まで行っていた。ホテルに着いてから、仮眠もせずシャワーも浴びる前にポケモンGOをダウンロードする。最初はヒトカゲにした。
ベッドの上に、すぐ目の前に、ヒトカゲがいた。
操作方法もよく知らないまま、街へ出た。晩ごはんを食べに入ったお店でコラッタがいた。飲食店にネズミがいる、と心の中で笑いながらコラッタをゲットした。
駅前だったのでポケストップが沢山あった。自分のどんくささを知っているので、慣れるまであまり人に迷惑をかけないように、最初は歩行者天国を何往復もしながらポケストップをクルクルしたり、ポケモンを捕まえたりした。
ちょうど私達くらいの世代はポケモンで育った世代だと思う。最初のポケモンのゲーム、が発売されたのは、私が小学校1年生の時だった。その後すぐに、子ども達の間でポケモンは共通言語となっていった。
うちはゲーム禁止だったけど、そんな状況でもいつのまにか151匹全て覚えた。それくらい、ポケモンはコミュニケーションツールのひとつだった。
そのうち、いとこに会ったとき、いとこが遊んでいるのを横からじっと覗き込んで、それだけでも嬉しそうにしている私達を見て、見るに見かねた叔母がこっそりゲームボーイを買ってくれた。弟と交代で、時には取り合いをしながらポケモンで遊んだ。
夜遅く、仕事を終えた彼氏が来た。育った場所も環境もまるで違うけどポケモンをやっていたというのは共通している。
飲食店にコラッタがいたこと、今日捕まえたポケモンのこと、ホテルの部屋からジムに行けるけどまだレベルが足りないこと、ひたすら喋る私の話をずっと面白そうに聞いてくれた。「俺はやらないよ」と言っていたけれど、翌朝アプリストアでポケモンGOを検索していたので、横からポチっとダウンロードボタンを押してあげた。彼もポケモントレーナーになった。
彼の両親に会うというミッションをこなしたあとは、こころゆくまで彼とポケモンに興じた。「イーブイが出た!かわいい~」「川が近づくと水ポケモン増えるね。コダック出てきたよ」「ほんとだ、ニョロモも出てきた!」
二人とも、子どもの時に覚えたポケモンの名前は今でもスッと出てくる。子どもの頃、ずーっと私達の世界にはポケモンがいたんだなぁとしみじみ感じた。バブルを知らない世代、不況しか知らない世代、欲がなく向上心もない世代、学力の低下したゆとり世代。そんな言葉でかわいそうがられてばかりだったけど、私達にはポケモンがいたんだよ。羨ましいでしょ。
見渡せば、みんなポケモンの話してる。誰かがレアなポケモンの名前を呟くと、みんな慌ててスマホを取り出す。
あの時ゲームの中でしていたことが、現実になってる。これってすごい。すごくない??街中にポケモンがいて、捕まえられるんだよ。子どもの頃に夢に描いていたことが、目の前で起こってる。20年前、こんなことができるようになるなんて思いもしなかった。
そして、ものすごいブームになっている。私達がゲームをするのを見て、そんな時間を無駄にすることして、他にもっと有意義なことがある、なーんて説教していた人までやっているのだ。自分達が熱中したものは、愛したものは、決して眉をひそめられるようなものではなく、それどころか、世界で愛されるようなものだったんだ。
大人になった今、またポケモンに出会えて嬉しい。かつて愛したものが、こうして形を変えてまた楽しめるということを知った気がした。年を重ねる楽しさってこういうところにあるのかもしれないと思った。
そして今は、自分の時間を自由に采配できる。子どもの頃は、宿題してからじゃないとダメ、1日30分以内じゃないとダメ、夜7時以降はダメ、など色んなルールがあったけど、大人になった今はもうそんなものはない。私がそうしたければ、夜中にポケモン探しに行ってもいいし、何時間やっていてもいいのだ。
実際、夜になってからポケモンジムに行き、負けてばっかり、とぼやいていたら、彼に「散歩がてら、ポケモンを探しに行きますか?」と言われ、満面の笑みで出掛けた。
子どもの時にやりきれなかったもの、楽しみきれなかったもの。やりたかったけどできなかったこと。20年たって、大人になって、それからやったっていい。
だから、今は手が届かないものも、きっといつかできる。いつになったって、きっと私はそれを全力で楽しめる。そんな気がした。
世界は進化し続けてきたんだと思った。きっと、これからも。20年後はどんな世界になってるんだろう。どんなものが現実になっているんだろう。そのとき私はどんな人間になっているんだろう。
私は未来を楽しみにしてる。
頑張るのやめると決めました
「自分の価値」を考えた日
あるイベントがあることを知り、詳細は書いてなかったのに
絶対行きたい!と思った。
これは、何でも下調べし、様々な情報を集めて検討する私にとってはかなり珍しいことだった。
行かなきゃ後悔する、と私の直感が言っていた。
詳細を訊ねると、その日のうちに返事が来た。
日程は参加者みんなで決める。もう二度とないイベントで、参加費は8万円。
交通費含めたら10万超える。遠方なので、宿泊する場合はもっとだ。今、彼と結婚資金を貯金しようと言ってるのに…。
日程を参加者みんなで決める、という点もすごく心配だった。
私の仕事は、不定休。土日は休み取りにくく、休み希望は月に3日しか書けない。希望が重なれば取れないこともあるし、取れても嫌な顔をされる。
彼に相談しよう、とLINEの画面を開き、文字を打ち込んだが、どうしても送信ボタンを押せなかった。
私は、私が心から行きたいと思っているのに、
職場の人に嫌われたくないからと行くのをやめるのか。
心から会いたい、話を聞きたい、
その人たちから学べること全部学んで感じること全部自分の糧にして前に進みたいと思っているのに、
そのためにたった10万円も払えないのか。
私のこの気持ちには、10万円の価値もないのか。
自分を大事にして本音を言って、本音で行動していこうと思っているのに、
人に相談しないと決められないのか。
私は、涙目になりながら、
参加したいと連絡した。
そして、はたと気が付いた。
ただお金を出すだけなら、もう少し大きな額を出したこともある。
しかし、自分だけのためではなかったり、形に残るモノだったりした。
そして、その時私は、早くそのお金を手放したいと思っていた。
給料泥棒と言われながら手にしたお金を、手元に置いておきたくなかったのだ。
自分だけのために、そしてただ経験するということのために、これだけのお金を使うのは初めてだった。
その瞬間、私は私の気持ちに10万円払う覚悟を決めたのだと知った。
返事を読んでから、行くと連絡するまでの約1時間の間、
本音以外の、不安とか嫌われないための計算とか全部捨てて、
ただのわたしに問いただしたのだ。
行きたいのか、行きたくないのか。
このまま自分を押し殺し周囲のご機嫌伺いをして、ただの都合のいい人になっていきたいのか、
それとも自分に正直に、本音で生きていきたいのか。
私は、あの時、カフェで半泣きになりながら、
私自身と極限まで向き合えたことを誇りに思う。
そして同時に、これまで自分と向き合うという経験をほとんどしてこなかったことにも気が付いた。
答えは明白だった、それなのに迷って自問自答を繰したのは、
この私の本音に10万円以上の価値を見出だすのに、時間がかかったからだった。
長い間本音を封じ込め、自分を蔑んで生きていた私にとって、
自分にそれだけの価値をつけるのは冒険だったのだ。
しかし、それでもいい。
そんな自分も、愛すると決めた。
これからは、自分ととことん向き合い、本音で生きていく。
そう思った、記念すべき日だった。
ゼロ
前回の英語レッスンは大変でした。
怒ったり拗ねたり、泣いたりいじけられたりして、
英語の先生も本当に大変だと思います←
これを1回のレッスンで全部やった私ね。ほんまにあんた、どんだけなの(笑)
しかも、泣きながら、「私もうタオル要らないと思ってたから用意してない!」とか謎の逆ギレするし…。
もう、本当にお世話になってます。魔導師さま、いつもありがとうございます。
もう、わたくし、魔導師さまに足を向けて寝れません。
そして、いつも英語レッスンの後は何か前進があります。
今回は本当に大きな一歩だったなぁ(自画自賛)
私を便利やさんだと思って利用しようとしてくる人のうちの一人に、
相手から手を切らせました!!
「○○さんに代わってもらうからメイちゃんもういいよ。今までありがとうね!またよろしくね」
みたいな感じで言われたけど
私もう二度とあなたと関わらないよん❤
あと、もう一人の利用者(笑)の奥さんとランチしました。
その時話したこと、忘れないうちにまとめときます。
この利用者さんには、「私は便利やさんではないし、あなたに利用される覚えはない」ってハッキリ言ってて、
言われてることはまだ分かっておられない様子ですが、酷く落ち込んでいらっしゃるとのこと。
でも、この奥様がすごく素敵な方で、
私が旦那さんのことバッサバッサ切り捨てるように言ってるのを聞きながら、
「あの人、一度死んで、生まれかわったらいいと思う。メイコはそのチャンスをくれたと思ってる」って言ってくれました。
なんていい奥様なんだ。
と、わたしゃ感動しましたぜ。
彼女は、
「人生、死ぬ数が多ければ多いほど豊かになると思う」
とも言っていました。
この「死ぬ」っていうのは、私は着ぐるみ来てないといけないと思ってる自分を死なせる、っていうことだなと思いました。
私も含め、みんなどんどん「本来の自分」の上から着ぐるみ何枚も着て生きてるんだと思います。
本来の自分じゃダメだと思ってるから。
この着ぐるみ着てないと生きれないと思ってる自分を一回死なせて、
本来の自分を生き返らせる、ってことだなぁと。
私も、まだあるかもしれない。
何遍でも死んで、生まれ変わりたい❤
話を戻すと、
この二人に共通するのは、
「自分の位置が分からない」
ということ。
だから、私を下に位置づけて、
あの子より上だ、自分はプラスの位置にいる、と安心してる。
で、 マイナスの位置にいるメイコは、自分より下の存在で、自分はメイコに人の役に立たせてあげているんだ、
役割を与えてあげているんだ、と思ってる。
魔導師さまの言葉も借りて説明すると、
私の感覚はこう。
私はいつもゼロだ。
人は関係ない。
私が成長したとしても、ゼロの位置が動くだけ。
プラスもマイナスもない。ただただゼロだ。
なぜなら、私は私だから。
他の誰にもなれないし、他の誰かが私になることはできない。
誰かと比較してプラスとかマイナスとか、アホくさいし消耗する。
そして、勘違いヤローになるだけだ。
他の誰かを生きることはできない。
他の誰も、私を生きることはできない。
私は、私を生きる。
ただそれだけだ。